初代院長の履歴書

 昭和39年東京五輪の年、私が京都の嵯峨小学校1年生の時、73歳で逝ってしまった祖父は、明治24年2月5日、当時の住所、京都府天田郡福知山町字裏・・・で、士族の長男として生まれ、神戸一中、三高、京大医学部とすすみました。当時のあの辺り?の秀才の典型例でしょうか。このDNAのごく一部でも私にも伝わっていると思うと、嬉しいような、いや実は、ほとんど伝わっていないと思うと悲しいような・・・我が身と比べ、あまりに違う履歴の祖父です。大正5年に京大卒業し、8年に一度開業した後、11年に大学院に入り、大正11年8月21日〜14年1月25日の間、長崎大学医学部の前身である、長崎医学専門学校で教鞭をとっていたようです。卒業して、6年目で教授というのは、今の私にはまったく理解不能ですが、大正時代なら、そんなのありなのでしょうか・・・。ある眼科の書物には、祖父について僅かな記載があり、『浅沼教授が欧米に留学中教授を務めた。竹内教授時代には各種眼疾患における眼組織、特に視神経における脂肪の出現についての実験的研究、網膜・脈絡膜の酵素についての研究、ヒト網膜の生体染色など、当時の先端をいく実験的研究が行われた。』などと記載されています。浅沼教授の代理のようですが、それにしても、この若さで凄い・・・!と、孫なのだから、褒め称えておきます。その後日本は戦争に突入し、戦後まもない昭和21年55歳で、小さな小さな地方自治体の首長となった祖父は、私の記憶では、『いこい』を吸い、怖い顔でNHKを見ていたお爺さんですが、今日は祖父の誕生日です。生きていれば117歳です。