新型コロナウイルス その2

1)この武漢肺炎、新型コロナウイルス感染に関して、どうも多くの識者・コメンテーター・解説者・・・など影響力をもってメディアで発言される方と医師との考え方に差がある気がする。そして医師の楽観的な見通しに怪しげな眼差しが向けられている。勿論、異常に楽観視するつもりはないが、医者の端くれの私が、感染症の専門家の話を聴いた印象では、彼らが正確なデータを正確に分析して得られた結果に基づいて語っている。
 この感染症に関して、支那には膨大なデータがあるのだが、正確性に乏しい巨大なブラックボックスなので全体像がつかめない。その中から抽出された正確なデータの緻密な分析が、このウイルス感染の正しい情報になるのだろう。特に武漢から飛行機で帰ってきた日本人の感染率はこのウイルスの感染力を示していただろうし、その後発症した患者さんの経過観察はこのウイルス感染の正しい臨床像を教えてくれるに違いない。SNSで流れてくる様々なデータに惑わされることなく、正しいデータに基づいて、正しく恐れましょう・・・・と私も思う。

https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/02/12/20200212k0000m030004000p/6.jpg?1

新型コロナウイルス電子顕微鏡写真(国立感染症研究所提供)(毎日新聞から)

 

2)その一方で、どうもこのウイルスの起源は野生動物などではなく、武漢にある「中国科学院 武漢国家生物安全研究所」から漏れらしいとも聞くし、またこのウイルスにはSARSには見られなかった4種類のタンパク質の挿入がみつかり、それがHIV-1と一致したとするインドの論文が話題になっている。石平、坂東忠信、孫向文さんらは生物兵器説の可能性を力説しておられるのも気になる。

3)最後に日本の感染症に対する対策。何故今になっても、支那の人は普通に日本に入国できるのだろう。私は安倍政権を支持するし、今の政権がどんなにダメでも、維新以外の野党は、その1000万倍ダメなので、安倍政権に頑張ってもらうしかないのだが、今回の感染症に対する対応は非常にお粗末に見える。まるで支那工作員に、安倍さんが羽交い締めされているような動きに鈍さを感じてしまう。本当に羽交い締めされているのだろうか、あの爺さんに・・・

新型コロナウイルス

中国において確定診断を中国でどのようにしているのか、あるいは、全患者の何割が医療機関にたどり着いて、どのような方法で診断が確定されて、その全体像が公表されているのか・・・不明な点が多すぎるので、中国の数字は無視して考えると、海外での総患者数が100から150人程度で、まだ死者が出ていないとすれば、致死率が非常に高い疾患ではない可能性が高い。
https://gisanddata.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6

また、武漢からチャーター便で帰国した日本人のウイルス検査はPCRのようで、この検査だと、症状の出ていない患者さんまで検出してしまいました。ある内科医の話では、昨年からインフル陰性の風邪が結構多かったらしいが、普通はPCRしないですから、実はすでに広まっている??

なお今回第1便で武漢から帰国した日本人においては、210人中1人発症(2名未検査なので正確には208人中)で、2名が症状のない陽性患者。つまり感染している割合は結構高い1-3%と思われる。1000万都市武漢なら2-30万人。衛生観念の乏しい人が多いことを考慮すればもっと多いのかもしれない。

いずれにしても、あまりビクビクする必要のない新型の風邪ウイルスで、通常の対応(手洗い・アルコール消毒・感染している可能性の高い国の人に近寄らない・人混みを避ける・できればマスクをする・睡眠・食事をしっかりして元気な状態でいる・・・)で十分なのかもしれません。

平川幸男(Wヤング)さんが亡くなった・・

 Wヤングの平川さんが亡くなりました。どこまで書いていいのかわからないんで、若干隔靴掻痒的文章となりますが・・、チョット記録に残しておきたいので。
 中高生だった私は、『Wヤング』や『やすきよ』が大好きでした。当時のWヤングの相方は中田軍治さんで、洒落づくしがヒットしていました。中田軍治さんが自殺していなければ、その後漫才ブームで先頭を走ったのはWヤングだったとうい思いが今でもあります。
そんな頃、奈良の山奥(今思うとそれほどでもないが・・)の都祁村あたりに小さな小屋を立てて、そこに前泊して飲み食いして翌日春日台でゴルフという野蛮な生活にのめり込んでいた父が、この小屋を売ろうと考えていて、毎晩ミナミで飲み食いするのが日常の、会員制リゾートの凄腕(?)営業マンAさんに委託していました。そのAさんが、飲み屋さんで平川さんと遭遇し、父の売りたがっていた山小屋を平川さんに紹介したのが縁で、平川さんと付き合うなったようです(多分・・)。その後、すっかり意気投合し、漫才なんか全然興味がなかった父が、平川さんと濃厚なお付き合いをするようになりました。

f:id:takkenm3:20191114180318j:plain

f:id:takkenm3:20191114180019j:plain


 いつの間にか診療所に有線を引き、平川さんの『北端の宿』が流れる診療所となり、ドライブのBGMは『北端の宿』ばかり。挙句の果てには診療休んで、平川さんのポスター撮影の為に青森へ行ったり。気がつけば、私まで『北端の宿』を口ずさんでいたような気がします。忘年会にはいつも出席されていて、時に仲良しの坂田利夫さんまで巻き込まれていました。奥様と息子さんも一緒に家に来られたり、平川さんの仲介でポメラニアンをもらったり(ルルちゃん)。親父のいきつけの祇園のお店のはしご酒に付き合った時、夜中に平川さんが芸子さんの三味線で歌う小唄に感動した鮮明な記憶があります。

 もう20年以上前ですが、父が亡くなった時、棺の前で号泣していた平川さんの姿が目に焼き付いています。その後も、職業上の理由で年に何回もお会いする機会があり、最後に入院する直前にもお電話をいただきました。何と返答していいのか困る内容に絶句しましたが・・・。平川さん、もう20年以上、天国で父が待っていた筈です。再開して、再び盃をかわしてください。一緒にカラオケしてください。父も喜ぶ筈です。チョット怖かった奥様もおられますが・・・

珈琲の自家焙煎

f:id:takkenm3:20190923084935j:plain

f:id:takkenm3:20190923085034j:plain

※ブラジル オウロ ヴェルデ農園


高校生の頃、博学の同級生の和田君に珈琲の美味しさを教えてもらい、心斎橋のMJBで七色の珈琲を飲み、ミナミの回転率の高い珈琲豆の卸業者の南米珈琲と出会った。その後40年以上珈琲豆を購入しつづけてきた。40年以上・・・でも仕方ない。いつまでも南米の豆を買い続けたいけど、自家焙煎の美味しさを知ってしまったもので。もう戻れないなあ・・申し訳ない・・^^;

私に自家焙煎を後押ししたのは、横浜の自珈亭さん。
http://jikohtei.ciao.jp/
ここのHPは、自家焙煎へと誘う素敵な言葉に溢れている。それだけでなく、香烙という焙煎器を販売されていて、その使い方の指導までされている。とても損得勘定でされているとは思えない素晴らしさに惹かれてしまい、気がつけば自家焙煎という結構高めのハードルを超えてしまった。香烙は素敵な焙煎器なのだが、1回70g程度しか焙煎できないのがネックで、毎週500gは消費する我が家においては、若干容量不足で、右手首が腱鞘炎になっても困るので、現在は1回250gを楽に焙煎できるものに買い替えてしまいました。

 焙煎を始めると、欲張りな私は、焙煎技術もないくせに、世界中の豆を焙煎したくなって、気がつけばこの1年で23カ国の豆を焙煎することに。

 少し前まで、ブルーマウンテン・ブラジル(サントス)・モカ(マタリ)・コロンビア(スプレモ)・マンデリン・キリマンジャロ・・・・などを適宜購入していたのだが、この一年で買ったブラジルの豆だけで、15種類。種類と言って良いのか不明だが、生産者・農園別に購入するので、こうなる訳です。

  1. ボンジャルディン農園
  2. 鈴木功 パライーゾ農園 
  3. ボンジャルディン農園
  4. イパネマ農園プレミア・クリュ
  5. トミオ・フクダ DRY ON TREE
  6. トミオ・フクダ・マラゴジッペ
  7. さくらブルボン
  8. アロマショコラ
  9. アマレロブルボン UTZ認証
  10. ブラジル オウロ ヴェルデ農園 【COE Brazil 2018】
  11. COEオリベイラス農園
  12. COEプログレッソ農園ブラジル・サンタアリーナ2017
  13. COEバリナス農園COEグランハ・サンフランシスコ農園
  14. COEバリナス農園

 

香港加油

 

youtu.be

もう60を過ぎて、人生晩年に差し掛かり、残された時間について考えることが多くなったようで、気がつけば日々の生活の追われているだけの毎日なのだが、香港での出来事は、ショッキングだ。日本に生まれ育った我々は、一応自由と民主主義が保証されている世界で生きてきた。多分、香港の若者もそうに違いない。中共という自由も民主主義もない国に囲まれていても、英国領に育った彼らは、自由と民主主義は当然存在するものとして育ったきた筈。それが、ある日突然奪われつつあり、彼ら彼女らは命をかけて戦っている。自分の子供とほぼ同年齢の若者が命をかけて戦っている。

インターネットが発達した現在においては、そんな自由と民主主義が突然奪われる状況が生放送されている。何処か遠くの未開発のエリアでも、我々と異なる赤いエリアの出来事でもない。つい最近まで、自由を満喫し、買い物したり、映画を見たり、旅行を楽しんでいたエリアで、普通の若者が命をかけて戦っている。沖縄の若者は、よーく見ておかないと。香港は明日の台湾、明後日の沖縄?辺野古で繰り広げられる闘争が沖縄全土に広がり、オール沖縄による赤い支配が進み、1国2制度の名のもとに、赤いエリアに組み込まれたら、香港の悪夢を沖縄で見ることになるかも・・・

熊本の想い出

f:id:takkenm3:20190901093624j:plain

アート・ブレイキー 城島ジャズイン 1982

f:id:takkenm3:20190901094520j:plain

フレディー・ハバード 城島ジャズイン 1982

この写真は、1982年別府城島高原での国際ジャズフェスティバルで初めて見たアート・ブレイキー御大と超元気だったフレディー・ハバード。熊本の写真がないので・・・

 

 

来週久しぶりの熊本。思い返しても最近熊本にあまり行っていない気がする。大分の学生の頃は、何度か行った。熊本出身の友人はあまりいなかったが、熊本有名進学塾?の壺溪塾出身の親友が何度か案内してくれた。この塾、どうやら今でもあるらしい。因みに、私は、近畿予備校出身です(^o^) ちょっと熊本の記憶を思い返してみる。当時、熊本と言えば、大洋デパート火災とか白川の氾濫とか・・・若干マイナスイメージ強かったかもしれないが。

 

1,一番の記憶は熊本市じゃないけど、少し北側にある荒尾市。その町の三井グリーンランドであったジャズフェスティバル。多分ライブ・アンダー・ザ・スカイだったかな。強行軍で行って、何時間も並んで、眠くてしかたなく、意識朦朧としつつチック・コリアパコ・デ・ルシアを聴いていて、ソニー・ロリンズが出てきた瞬間、身体中の血液が逆流するような興奮に包まれた記憶が鮮明に残っている。ネット検索によると当時のメンバーは以下の通りらしい。


ライブ・アンダー・ザ・スカイ 81" ソニー・ロリンズ SONNY ROLLINS SPECIAL GROUP

⇒ネットで拾った1981年ライブ・アンダー・ザ・スカイのライブ映像。これは田園コロシアムだが、まさに演奏はこのまま。インターネットは素晴らしいなあ・。・・

 

2,下通りにJazz inn Soiree と言う名のジャズ喫茶があった。何度か行った熊本で何を食べ何を飲んだのかさっぱり覚えてないけど、何回も最後にここを訪れた記憶がある。中は暗くて、確か下駄箱のようなものがあり、そこで靴を抜いて上がったような。少しふかふかの絨毯の上に座ったような記憶が。

 福岡にはケリー、鹿児島にはパノニカ、熊本にはソワレというジャズファンにとっては超有名店があり、ソワレは、当時『Kunihiko Sugano Live!』という一番好きなライブアルバムでスガチンが躍動していた場所でもある。手元にあるレコードには、A面2曲目のボサノバ『波』がソワレでの録音となっている。もうパノニカもソワレもなくなってしまったようだ。

 

3,私は嫌だったのだが、松本さんがどうしても・・・というもので、何故か準硬式野球部に所属していて、一度熊本遠征したことがあった。どこのグラウンドでどんな試合をしたのか殆ど記憶がないが、何故か宿泊は熊大野球部員の家だった気がする。しかもその部員が後日、フィーリングカップル5対5に出ていて爆笑した事は鮮明に覚えている。

 

4,前述、壺溪塾出身の松本さんが、自動車免許を取り、初めて軽自動車を買った。ホンダZという変わった形の怪しい色合いの車で、何人かで分乗して熊本へ向かった。やまなみハイウェイを超えて熊本へ行ったのだが、結構スイスイとやまなみハイウェイを走りぬけたが、熊本市内へ入ると、運転がヘタで死ぬほど怖かった^^; 若気の至り。死ななくて良かった・・

f:id:takkenm3:20190901095019j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョアン・ジルベルト逝去

f:id:takkenm3:20190708114912j:plain


ジョアン・ジルベルトが亡くなったらしい。奇しくも私の誕生日に・・・。それほど熱烈なファンじゃないのだけれど、最近良く聞いていたのでちょっと寂しい。最初に知ったのは40年ほど前だが、GETZ/GILBERTOというアルバム。多分その前にスタン・ゲッツのジャズ・サンバを聴いていた筈。スタン・ゲッツジョアン・ジルベルトアストラッド・ジルベルト夫妻、それにアントニオ・カルロス・ジョビンなどがボサノバを世界的なものにしたので、1980年頃に大分の大学生だった私に耳にも届いたのだろう。

最近は滅多にレコードに針を落とすことがなくなったのだが、YouTubeをプレミアムにして、卓上スピーカーを少しグレードアップしてから、部屋の中では高頻度でボサノバが流れるようになった。休みの朝に聴く音楽としては、ぴったりなもので。ごく最近では、ブラジルのイパネマ農園の豆で淹れた珈琲を飲みながらイパネマの娘を聴いたりしていました。そんな中でのニュースだったもので、ちょっとびっくり・・