タイムが天寿を全うしました

愛犬のタイム(ミニチュア・シュナウザー)が令和7年12月12日朝息を引き取りました。20歳を目指していた超老犬でしたが、やっぱり20歳の壁は大きかった。19歳を越えてから、体重減少が止まらなくなり、足腰も弱くなり、やがて寝たきりとなりました。子供の頃から、決まったドライのドックフードとリンゴしか、食べさませんでしたが、ここに来て、様々な柔らかいドッグフードもトライし、最後は流動食を10ccのシリンジで流し込んでいましたが、それでも多重減少を止める事はできず、少し前から、若干息苦しい感じの呼吸となり、今朝静かに息を引き取りました。19歳と8ヶ月も、楽しい時間を過ごせました。愛犬には本当に感謝です。

19歳の誕生日の写真


※幸い仕事場は、暗くて、泣きべそかいてても、気づかれませんでした。

 

平和墓地

平和墓地にて集合写真(昭和41年)

隠居した祖父が住んでいた福知山市堀の家のすぐ南側に平和墓地と呼ばれる緑地がある。そこは、旧福知山陸軍墓地で、戦前は、福知山陸軍埋葬地で、終戦後荒廃しつつあったのを昭和32年(私が生まれた年)に再建したらしい。この墓地には、幼い頃何度も行っている。また、祖父母の家に親戚一同が集まると、ここで集合してお弁当を食べたりした記憶があるが、ここに誰が埋葬されているのか、その成り立ちがどうなのか・・・考えたことがなかった。「墓地は中央の階段を中心に6段の雛壇状に造成され、それぞれの段に一列ずつ墓標が並んで」いて、最上段には、忠霊塔がある。元々は「滿洲事變戰歿者合同墓碑」だったらしい。

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※祖父母の住んでいた福知山堀は、福知山陸軍練兵場にエリア内になる。

和田くん

和田くんは、3月31日午後8時40分に逝ったらしい。
奥さんが、私に見習って、耳元でサイモンとガーファンクルをかけると、腕と指がピクっと動いたと言っておられた。逝く間際、音楽は彼の耳に届いたのかもしれない。和田くん行ってらっしゃい。私はもう少しこっちで頑張ってから、そっちへ行きますね。また、珈琲もお酒も飲もうね。

合掌

Wくん その2

 眼科医会の健保説明会をブッチして、お見舞いに行った。重要性を天秤にかけたら当然かな。ただ、お見舞いという呼び方がふさわしいのかどうか微妙な状況に彼はいた。焦らずに車を運転して、最近慣れ親しんでいる枚方市へと向かい、彼がサイモンとガーファンクル、特にアート・ガーファンクルが好きだったのを思い出して、S&Gの曲を掛けながら運転したが、ちょっと泣きそうになった。病院について、小島くんから聞いている7階西病棟に向かった。事務員の対応はいかにも公務員的で、最低やなあ・・と思いつつ、7階へ。間違って、7階東に行ってしまい、病室の名前が彼の名前と違うことに、愕然とした。えっ間に合わなかったのか・・と、ちょっと凍りついていたが、病棟間違いだったことに安堵して、7階西へ。彼はベッドに横たわっていたが、もう深い昏睡状態にあり、呼びかけには殆ど反応がないようだった。時々ぴくっと反応があったのは、やっと来たんか。遅いで・・と怒っていたのかもしれない。
 手元にあった、自分で焙煎したブラジルのショコラ・ピーベリーを淹れてポットに詰めて持って来ていたが、香りは彼に届いたのだろうか。南米珈琲のブルーマウンテンにすべきだったのかもしれない。珈琲をコップに注ぎ、歯ブラシ代わりのスポンジに珈琲をたっぷりつけて口に運んだが、ちょっと熱くて反応したのか、香りや味が届いたのかは微妙だった。これが高校1年から飲み続けてきたが、彼が飲む最後の珈琲になるのかもしれない。もう少し早く来るべきだった。肝性昏睡のせいか、モルヒネのせいなのか、彼を深い眠りから呼び戻すことは不可能だった。スマホYouTube MusicでS&Gの曲をかけ、かつて彼が口ずさんだことがある曲を耳元で再生してみたが、これも無駄だった。
 でも、長い間の苦しみから開放されて、安らかに眠っているように思え、それ以上無理に呼びかけたり、起こしたりすることは出来なかった。お見舞いというより、もう生きている間は退院することのない病棟で安らかに眠る友人に別れを告げて帰ってきました。

Wくん

数少ない友人の一人が重病に臥せっている。

徐々に疎遠になっていたものの、心を許した本当に数少ない友人の一人に違いない。彼とは高校1‐2年と同じクラスなので、出会いは昭和48年。場所は弁天町(^^♪ ベトナム戦争が終わり、江川が怪物と呼ばれていた頃かな。彼は私の100倍以上の読書量を誇っていた。遠藤周作のぐうたらシリーズとか、北杜夫のどくとるマンボウシリーズぐらいしか読まない私は、小難しい本を軽々と読破していく彼を尊敬の眼差しで見ていた。今に続く『美味しい珈琲』を教えてくれたのも彼だった(煙草もね・・)。友人でもあり師匠でもあったのかなあ・・学校帰りに心斎橋のMJBに何度行っただろうか・・。当時MJBは心斎橋・淀屋橋と上本町など3店舗以上あったが、我々はいつも心斎橋MJBの七色の珈琲(毎日7日間、ブレンド珈琲の豆が変わるので七色)を味わっていた(高校生のくせに・・)。心斎橋商店街を歩くと『およげ!たいやきくん』がいつも流れていた。我々は一杯の珈琲で1時間以上粘る厄介な客だった筈。日本橋の交差点近くに大名トルコという風俗店があり(当然行ったことはない)、そのすぐ横にあった南米珈琲店という珈琲豆の卸屋さんを紹介してくれたのも彼だった。そこは回転がすごく速いので、劣化していない豆を買えるし、一般的なお店よりかなり安かった記憶がある。そこで珈琲豆を買うことを母に教えたら、母はその後30年以上買い続けていた^^;

 彼の家は大正区泉尾にあり、実家は八百屋さんだった。彼と一緒に渡船に乗った記憶もある。(そう言えば、もう一人中学生の頃の友人の一人も家は八百屋で、彼は現役で京大に入り、彼の兄は医師になっている。小さい頃から野菜を食べると賢くなるのかも・・)彼は実家の近くに部屋を借りていたので、何度も彼の家行った。彼の姉が、クラシックギターがめちゃくちゃ上手だった影響で、彼もアルハンブラ宮殿とか弾いていた。フォークギターのコードもちゃんと押さえられない私は尊敬の眼差しで見ていた。自作したパソコンでプログラミングみたいな事もやっていて、簡単なゲームのようなものを作っていたようが気もする(私にはちんぷんかんぷん)。次に彼が借りた大国町の部屋にも何度が行ったかなあ・・

 彼はいつも冷静で、素顔を見せない雰囲気をもっていた。私はどんな雰囲気だったのだろう・・・

我々の学校は、大手前に入れなかったレベルの人間(ちょっと頭が悪いか勉強が嫌いだった・・と分析していた)が集まっていて、普通に勉強していたら、関関同立に入れるが、阪大・京大となると、よほど真剣に受験勉強しないと無理で、医師になるのは至難の業^^; 僕達は、浪人してから頑張ろう・・と、学生時代はゆったりと過ごす事にしていた。彼は土佐堀のYMCAへ行き、私は皆と距離を置きたかったので、当時、百万遍に一時移転していた京都駿台へ行った。私は高校3年間のゆとり生活が祟り、1年では成績がイマイチ伸びず、烏丸今出川にあった向かい同志社より難関と言われた(笑)近畿予備校にもう一年通う羽目になったが、その頃、北白川に部屋を借りていて、晴れて阪大生(理学部物理学科)となった彼が、嫌味っぽくなく、浪人している私の部屋に何度か遊びに来てくれた。珈琲も飲んだけど、樹氷とかアーリータイムズも飲んでたよね。私は水割りで、君はロックだった。一度、私が留守にしている時に訪ねてきて、鴨川で徹夜で飲んだくれて、鴨川にはまったこともあったんだよね。

 何とか私が大学に入り、大分にアパート借りると何度か訪ねてくれました。九州一周旅行もしたね。鹿児島と柳川はよく覚えているよ。鹿児島ではユースに泊まり、夜リクレーションタイムになるとウルトラマンゲーム(?)をしたのだが、私は死ぬほど嫌だったけど、君は意外にそうでもなかったような。柳川では川下りもしたかな。たまに大阪に帰った時は、阪急東通りとか百又ビルのバーボンハウスで飲んだよね。飲んでばっかりか・・・

 阪大を卒業後、文学の勉強したいと行って、市大文学部哲学科に入りなおしたのにはびっくりしたわ。結局理想と違ったのか、卒業しないで、高校の教師になって、長い間バトミントン部の顧問してたかな。かなり年下の彼女と結婚して、可愛い娘さんにも恵まれて幸せそうだったよ。

 

 

高齢の愛犬

3月に18歳になってから、足腰の弱さが際立ってきた。頻尿の症状も悪化し、何度も公園に連れ出す必要がある。視力も衰え、恐らく右眼はほぼ失明かも。眼脂が多いので、久しぶりに手持ちスリットで診ると、白内障よりも角膜実質混濁がかなり高度で強烈なパンヌスを伴っている。あまり人間では見ないパターンで、どうしてたらいいものか・・。とりあえず眼脂が多いので、抗菌剤で様子をみることにしたが、モキシフロキサシンがほぼ効果がないようなので、ベストロンを。32倍希釈したイソジンも併用しようかな。

中東の真実

 

何年か前、日本国紀を読んで、もやもやと日本の歴史を覆っていた霧が晴れ、素敵な日本の素顔が見えてきて、晴れ晴れとした気持ちになったが、今回飯山陽さんの『ハマスパレスチナイスラエル メディアが隠す真実』を読んで、長い間理解不能だと考えていた中東の姿の一端がやっと見えてきた。

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ハマスとは、もともとエジプトのムスリム同胞団というイスラム過激派テロ組織のガザ支部で、ハマスの目的は地球上からのイスラエル殲滅し、全世界をイスラム支配下におくことだと。

ハマスは、イスラム過激派のテロ組織であり、パレスチナ人を代表しているのではなく、パレスチナ人を抑圧し支配下に置いているだけ。彼らは、パレスチナの緑豊かな土地を軍事基地にし、住宅地・子供の遊び場・モスクにロケットランチャーを配置し、学校を武器庫にし、病院に司令本部を置く。そして、イスラエルにロケット弾を打ち込んでいる。

 イスラエルは国家であり、軍事作戦は事前に告知され、民間人を巻き込まないように、数百万枚のビラを撒き、数百万回の電話をかけ、ショートメールを送り、警報を鳴らし、ルーフノッキングをして退避を呼びかけた上で、退避ルート・退避地帯・退避期間を設けた上で作戦を実施している。

 ハマスイスラエルの反撃に備え、パレスチナ人(特に女性と子供)を人間の盾として配置する。住民用のシェルターは皆無で、自分たちは、地下トンネルに立てこもる。パレスチナ人が一人でも死んだら大騒ぎして、世界中に被害者アピールをする。時に自作ロケット弾の誤爆パレスチナ人に犠牲者が出ることも少なくないらしい。結果『可哀想な』パレスチナ人に集まる支援金はハマスの手に。つまりロケット弾を打てば打つほど、お金が入るシステムが出来上がっているのだと。ハマスイスラム聖戦もPLOも、パレスチナ人が悲惨な目にあえばあうほど、潤っていく。このシステムに加担しているのが、例えば朝日・毎日・TBS・・・。アラブ諸国のメディアはこれを公正に伝えているというのに・・

ハマスの幹部は大金を入手し、トップ3の資産は1兆円以上。海外でセレブ生活を満喫しているのだと。

 

『O』というテロ組織が地下鉄でサリンをばら撒くという無差別テロを行い、多数の死傷者が出て、その後警察が『O』の本部に捜査にはいり、もし銃撃戦にでもなったら、これを『O』と警察(日本国)の戦争と呼ぶのだろうか。この戦争によって双方に犠牲者が出ないことを祈る(岸田首相)のが正しい態度なのだろうか。『O』も警察も冷静になって、犠牲者がでないように・・・というのが正しい態度なのだろうか・・・

 

国連パレスチナ難民救済事業機関UNRWA)を通じて世界中からお金が集まり、ハマスへ流れるシステムがある。EUはこのシステムを見直すことにしたらしいが、日本はこのシステムを強化するらしい・・。今回のテロを受けて、かわいそうな『パレスチナ難民』に追加支援するらしいが、その多くはまたもやハマスへ・・・。

 

ハマスに資金援助・武器供与しているのは、イラン。というより、ハマスは、イランがイスラエルを攻撃する為のガザ地区出先機関のようなものらしい。ハマスが頑張ってイスラエルを攻撃していると、イランからお金が入るシステム。ただハマスは、カタールからも資金援助されていて、幹部はカタールに住んでいので、イランの完全代理組織ではないが、イスラム聖戦というもうひとつのテロ組織は完全なイランの代理組織らしい。

 

エルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地とされるが、イスラムの聖地ではない。ムハンマドが昇天したとされる岩のドームは、ムハンマドの死後作られたもので、それに沿って歴史は捏造された。エルサレムイスラムの聖地なら、そこへロケット弾を打ち込んだり出来ない筈。