悲しい現実

彼と出会って、もうすぐ40年になる。

彼が小さな頃から真面目にコツコツと勉強していたのは間違いないと思う。特段遊びもせず、日々勉強し続けてきたのだろう。彼にとってそれは当たり前の日常で、それほど苦痛ではなかったのかもしれない。他大学出身の私は知らないが、彼の学生時代の授業ノートは、どんな教科書よりも優秀で、伝説的な書物となり、何世代か後輩にも受け継がれていたと聞いたことがある。当然のように首席で卒業し、眼科へ入局してきた時、既に有名人だった。首席に贈られる特別な時計も持っていた気がする。

個人の感想だが、彼はいつも何でも知っていた。いつどこでどれだけ勉強すればこんな人間になれるのだろう・・・と何度驚かされたことか。彼の書き上げるカルテは、先生のお手本のように、綺麗で間違いがないものだったので、密かにコピーして持っていた。眼科専門医試験は全国で2番だったらしい。彼の成績が優秀で驚いたのではなく、彼よりいい成績の人がまだ一人いることを当時の教授が驚いていたらしい・・。

初めて当直をした時だったか、彼と一緒に急患が到着するまでの間、本を読んで準備をし、いざ異物をとる時になって、何でも完璧な彼の手が軽く震えていたのを楽しい思い出として記憶している。もう40年近く前の話だけど・・。日々の診察、勉強、学会発表、論文執筆、サルを使った実験研究、電子顕微鏡の標本づくり、電子顕微鏡の操作の仕方、写真の読解・・・・いったどれほど彼の世話になってきただろう。一度、サル眼にキセノンランプを照射する時に、間違って彼に当ててしまった事があった。もう少しで、有望な若手医師の未来を奪うところだった^^; サル眼のFAGを撮る時、何度補助してもらっただろうか。きっと私だけではなく、多くの医局員が、様々な場面で世話になってきた筈。皆忘れてないよね? 私なんか、初めての集談会の発表のスライドの多くは、彼の手書きの非常に美しいスケッチでした(アルカリバーンの角膜が徐々に周囲から血管新生が生じるとともに混濁していく過程)。

当時の主任教授は、当然ながら、彼の優秀さを知っていて、重要課題はまず彼に与えていた。あまり羨ましくなかったが、海外の学会へも若い頃からよく連れて行かれていた。最初はイスラエルだったかな・・。当時、老人性円盤状黄斑変性症と呼ばれていた疾患は、やがて彼のライフワークとなり、症例をまとめては発表して論文にし、関連した基礎研究も行って、発表して論文にする。そんな日々を積み重ねるうち、助手・講師・助教授・そして現在のポジションに。専門分野では、彼を知らない人はいない筈。我々はそんな彼の歩みを当然の出来事のように見ていた。当時、自学出身の教授を生み出すのは、なかなか至難の業だったが、卓越した能力は楽々と高いハードルを乗り越えて現在の地位に。

同級生だからなのかもしれないが、彼はどんなに偉くなっても、偉そうな態度を私にとった事は一度もない。たった一度だけだが、結婚する前、今の奥さんを可愛いやろ・・・って、自慢したことがあるけど。

還暦を過ぎ、そろそろ引退の年齢が近づいて来て、大きな学会の主催し、日眼か臨眼で特別講演・・・などの花道を歩く彼の姿を思い描いていたのだが・・。



この結末は少し悲しすぎるよ。
なあ、どうやって恩返しすればいい?

パーッと飲みに行こうと行っても喜ばないよなあ・・

大熊先生、どうしましょう?

山岸先生、どうすればいいですか?

湖崎、どうしたらいい?