大阪府立市岡高校

 高校時代から恒例なのですが、数少ない大切な友人のK氏・W氏と3人で、高校時代の恩師宅に遅めの年始の挨拶に伺ってきました。恩師宅への年始の挨拶は、途中途切れてはいますが、もう30年以上前から続いています。その恩師は、母校に伝わる数え唄の8番『8つとせ 山に登ればいい男・一寸法師か金太郎・そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね 』に歌われ、記録によると、昭和28年から平成2年まで、何と38年間も母校に勤務された伝説のF先生です。元々、ただの体育教師ではなく、伝統の日本体育大学体操競技部の主将で、五輪を目指しておられて、世代的にはメルボルン・ローマの金メダリストの小野喬と同世代でしょうか。この時期日本代表は、世界一なので、世界トップレベルの戦いをされていたのだと思います。昭和28年に母校に来られてからも、五輪への夢を持ち続け、最後に挑まれたのは秋田で行われたメルボルンかローマ五輪の予選だったようです。夢破れ放心状態で秋田から帰途につかれた際に遭遇した永平寺の住職との話は何度聞かされたことでしょう・・。その後、独学でスキーを学ばれ、気がつけばSAJの西日本ブロック強化委員をされたり、テニス部を指導すればインターハイでも全日本のトップレベルに・・。遊びでゴルフ始めたらすぐにシングルに・・・。何をやっても半端じゃないスーパースターです。一言一言に重みがあり、こうやって年始の挨拶をさせていただく度に、教え子の名に恥じない生き方をせざるを得ないという思いを新たにします。その為の年始の挨拶のような気がして、これだけはやめるわけにはいきません。

 実は、恩師は私と同じ福知山出身で、しかも父と同じ福知山中学の出身なのです。父が大正14年、恩師が昭和4年ですから、学校ではすれ違いでしょうが・・。父の弟の事はご存知のようでした。加えて、高校3年間、毎年クラス編成が変わり、担任も変わるのですが、全校生徒でただ一人私だけが、3年間とも恩師に担任していただけるという名誉(?)に浴したのです。恩師の御子息が医学部を卒業し入局した先の主任教授が、父のいとこだったりと、私と恩師は、奇縁で結ばれているようです。この縁はいつまでも大切にしたいものです。