懐かしい場所 その1

 先日、秋の嵐山へ行ってきました。
 実は、昭和38年、39年の2年間(もう40年以上前の話)、京都市右京区嵯峨天竜寺広道町・・・に住んでいました。父が京都の鉄道病院勤務だったので、国鉄嵯峨駅前の鉄道宿舎に住んでいたのです。昭和を印象づけるあの鉄道宿舎は影も形もなく、近代的なコミュニティ嵯峨野という名の手話研修センターが建っていました。当時から、観光地だったに違いありませんが、5−6歳の少年にとっては、『そんなの関係なく』、嵯峨幼稚園に1年、嵯峨小学校に1年通いました。
嵯峨駅前にロータリーがあり、これは今もあるのですが、駅からみて右側には、銀杏の木が2本ありました。非常に大きな銀杏の木で雄と雌のつがい?だったような気がするのですが、先日見たものは何だか小さな銀杏でした。この西側は、何故かだだっ広い資材置き場のような広場があり、幼稚園へも小学校へもここを通って行きました。(今ここは、トロッコ列車の駅が占拠しています)突き当たりには、確か、石屋さんがあり、幼稚園はここをまっすぐ、小学校は右へ曲がって踏み切りを渡って・・・
 5−6歳の子供の行動半径は狭く、学校以外は、南は渡月橋、東は宿舎東側の踏み切り、麦畑?、西は天竜寺、北は釈迦堂ぐらいだったと思います。この時代、豆腐、竹竿などを売り歩くことがあり、パフパフ・・という音と共に豆腐屋さんがくると、ボールを持って買いに出たような。
 今は見る影もない嵯峨駅から南へまっすぐ行くと嵐電の嵯峨駅があります。その途中に左側に駄菓子屋があり、そこで何度も買い物しました。紐につるされた粉まみれの怪しげな飴、指先につけて、指をパチパチすると煙?がでる忍者グッズ?、悪ガキの証明:2B弾?など毎日のように行っていたなあ。この駄菓子屋の近所に信用金庫があり、昭和39年に東京五輪記念の1000円銀貨が発売され、朝から並ばされ、学校を遅刻しそうになり、泣きべそをかいたことも。
 思い出話が長くなりましたが、今回の目的は、渡月橋南詰から西へ続く岩田山・嵐山の紅葉、亀山公園の紅葉、竹林、そして天竜寺横の湯豆腐です。阪急で行ったので、電車を降りると渡月橋南側、桂川右岸です。ここから岩田山方向を見ると、緑・黄・赤・茶が見事なグラデーションでちりばめられた紅葉が出迎えてくれました。渡月橋を渡り、北詰を西へ。船場とは異なり、今でも立派な嵯峨吉兆前を素通りし、亀山公園へ。公園内の紅葉は、ピークは過ぎていましたが、時折はっとするような彩を見せてくれます。昼食まで時間があまり無いので、亀山公園より西側へは行かず、大河内山荘も入らず、竹林の小道を天竜寺方面へ。実は、この道さえ、歩いたのは初めて?いつもテレビや雑誌で有名な竹林はここだったのかと。 平日だというのに、ごった返す小道を抜け天竜寺の北側を通って、由緒正しい?野宮神社へ寄らず、通りに出て、天竜寺横の湯豆腐屋さんへ行きました。ここの湯豆腐は、釈迦堂前の森嘉の豆腐だということで、もう何十年も前から父に連れてきてもらってました。ただ、今回ばかりは?????????。こんな味だった?西○○堂さん、何かあったの?かなりがっかりさせられた後、懐かしい道を通り、JR嵯峨駅方面へ 続く