北白川

 河原での昼寝は気持ちいいものです。いつも出町辺りの加茂川と高野川が合流し鴨川になる場所は、昼寝にもってこいの場所でした。切羽詰っている筈なのに、不思議と何とかなると思っていたようで、自分で決めた時間割の空き時間は、ここで一休み。

 チョット我儘を言って、北白川に1年ほど住んでおりました。昭和52年、たった1年ですが、そこでは様々な思い出があります。私には、友人が少ないのですが、その中の二人について・・。ひとりは、コツコツと勉強し、エリートサラリーマンとなるようなタイプのK氏、もう一人は、勉強してるのかいないのか不明ですが、独自のスタイルで哲学者を目指し、夭折するはずだった我々の精神的支柱W氏。3人が親友であったかどうかは、疑わしいのですが、時々聖地MJBで七色の珈琲を飲みつつ、何時間も語り合っていた筈です。この二人が、無謀にも医学部を目指していた私を置き去りにし、事もあろうに、阪大に入ってしまったのです。これで、少しは焦ったのかどうかは記憶が定かではないですが、気合が入ったのは確かです。そんな彼らが、お気楽気分で、北白川に居た私の家をアポなしで訪問しようとしたらしいのですが、あいにく留守で、彼らは鴨川河川敷で酒を呑みつつ夜を明かし、泥酔したK氏が鴨川にダイブ?し、収集がつかなくなった??事件も懐かしい思い出となっています。偶々実家に戻っていて、難を免れた私は、その後順調に成績を伸ばし?、実家から500km以上離れているという条件??をクリアした、入学金の安い大学へ行くことになりました。

 突然ですが、私はボクシングが好きでした。ファイティング原田に始まり、沼田、小林、柴田・・・一番好きなのは輪島。相撲の輪島も好きでしたが、ボクシングの輪島は最高でした。彼は遅咲きで、世界タイトルを取ったのは、30前だったでしょうか。独特のボクシングスタイルが好きだったのではなく、負けそうになっても、或いは、ぼろぼろに負けても、彼は復活するのです。特に、柳済斗に負けた時は、もう絶対あかんと思いました。
6度防衛した後、
 昭和49年6月にオスカー・アルバラードにKO負け。昭和50年1月判定勝ち。
 昭和50年6月に柳済斗にKO負け。昭和51年2月KO勝ち。
 昭和51年5月にデュランにKO負け。
 そして、昭和52年6月WBA王者のエディ・ガソに3度目の返り咲きを懸けて挑戦。11回KO負け。

昭和52年。北白川でテレビのないストイックな?生活をしていましたが、この輪島の最後の戦いだけは見ないといけないと家を飛び出し、彷徨い、テレビの置いてあった大銀食堂のテレビで彼がボロボロになっていくのを眺めていました。もういいよ輪島。立ち上がらなくても・・・。翌昭和53年アリス最大のヒット曲チャンピオンを大阪から500km以上離れた大分で聞きました。