最近タイムが登場しないので、先ず朝陽とタイムから・・・寒くなると朝陽が美しくなります。それを見とれるタイムも美しい・・・

 先日、京都に行ったので、京都をうろうろしていた2年間を思い出しました。
 渡月橋から北へまっすぐ1kmほど歩くと、つきあたりに釈迦堂と呼んでいた寺があります。この釈迦堂というのは、釈迦如来像を本尊とする仏堂または寺院に付せられる名称のようで、寺の名は、清涼寺と言います。この地は、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融の別荘・栖霞観があった場所だそうです。そして、この源融は、紫式部源氏物語』の主人公で美男子の光源氏の実在モデルとする説があるのです。
 一時、訳あって?京都の百万遍の京大前にあった駿台予備校に通っていた時、古文担当は、枕草子の権威、田中重太郎博士でした。実は、古文は選択していなかったのですが、参考書で名前を知っていた私は、スターにでもあったような気分で、熱中して講義を聴いた記憶があります。その時に、大学受験の合格祈願に清涼寺にある左大臣源融の墓をお参りするようにと、単なる駄洒落を飛ばされた博士の記憶が鮮明に残っています。87年に亡くなられたようで・・・合掌

 京都駿台といえば、当時、私にとってアイドル?的存在だった表三郎先生のことを鮮明に覚えています。モネの絵画に関する難しい評論文(勿論英語です)についての講義は、非常に難解だったのですが、その難解さが、モネの深い味わいと重なり、今でも、モネの睡蓮の絵を見ると表先生の顔が浮かびます。
 ウィキを見ると、何と表先生の項目があるじゃないですか。

1980年代から90年代中頃まで、駿台予備学校関西地区の英語科ではナンバーワンの人気を誇っていた。講義の内容は、単なる英語の授業というよりは、文学・哲学・社会学等に及ぶ講義となることが多く、教養講座に近い内容であると言われる。受験産業の中では、受験テクニックを売りにする予備校講師が多いが、表三郎の授業では受験に特化したテクニックを扱うことはない。むしろ、表三郎自身は受験テクニックを毛嫌いしている。

 そのとおり。夏期講習なんか、大入り満員。翌年近畿予備校に行ってからも、こそっと聴講しておりました。今も、元気にしておられるのでしょうか・・・

 駿台で思い出すのは、日本史の佐々木先生。田辺一鶴じゃないけど、さながら講談師。源平の戦いが特に面白かった。パールハーバー奇襲が奇襲じゃなかった事や、航続距離が世界一の航研機(航空研究所長距離機)のこと。これで何故本当の奇襲をアメリカ本土にしなかったのか?など・・・全く受験スキルと関係のないものばかりを熱く語られたように記憶しています。

 あんまり楽しいので、となりの学校でもう一年。近畿予備校では、数学の永井先生、英語の橋本先生、化学の小林先生・・・・キラ星の如くスターが??

 数学の永井先生:独特やったなあ・・。授業は難しくて、全くついていけませんでした。これを解く奴だけが、京大に入れるのかと・・・恐れ入ったものです。一度大丸の前で、奥さんに山ほど荷物持たされた哀れな永井先生を目撃しました。
 英語の橋本先生:最も愛すべき尊敬すべき先生です。着物姿だったでしょうか。プロレスが好きで、どんなに疲れていても、スリーカウントされると3つ目にシャキッとする?録音テープが眠っているので、一度聞いてみようかな?今は牧師さんをやってるって本当?
 化学の小林先生:赤本はバイブルでした。マジに助かりました。

 好きな授業だけチョイスして、嫌な授業は自習にし、自分独自の時間割を作ってました。近畿に行ってからも、時々駿台に忍び込んだりして・・。暇なときは、鴨川で昼寝。百万遍近くにある進々堂で珈琲を。北白川の喫茶:ベアーや隣の大銀食堂には毎日のようにお世話になりました。磔磔へも何度か行きました。浪人生には場違いでしたが、憂歌団や若き日の『たかじん』もいたし、格好良かった上田正樹も・・・・。
この頃、ラジオはKBS京都ばかり。夜はズバリクと共に過ごす日々。自然と、週末には、白亜の殿堂?『もろぐち亭』へ行くようになり、C&Wのライブそしてバーボン。気がつくと、昼下がりコンサート、顔見世興行、宵宵山コンサート・・全部行っちゃいました。

苦しくも楽しすぎる昭和51、52年@京都・・

小・中・高+α・大学、このαが楽しかったのは、負け惜しみじゃありませぬ。