五つの墓石

takkenm32007-04-28

 5月1日は父の命日です。平成7年5月1日に父が亡くなって、12年が経とうとしています。亡き父を偲ぶ会をやらねばと思いつつ、時間だけが過ぎてゆきます。親父御免ね。今日は、命日の2日前ですが、墓参に行ってきました。ゴールデンウィークに逝くという粋な事をしてくれたお陰で、命日の墓参は、渋滞情報をにらみながら、墓参日を決定しないといけません。墓は、大阪市内じゃなくて、福知山にあるもので・・

 阪神高速池田線の池田木部出口から423号線に入り、伏尾・上止々呂美を通り、豊能町の田舎道を走って、亀岡に入りました。関西カントリーというゴルフ場の少し手前に、『きく家』という酒屋があります。何故かこの店は、あの『秋鹿』の品揃えが抜群で、その日も、ついつい純米吟醸純米大吟醸の小瓶を1本づつ買ってしまいました(冷蔵庫はもういっぱいなのに・・・)。その後、京都縦貫道に入り、南丹PAで一休み。まだ気温が上がらず、タイムも気持ちよく走っていましたが・・・チョットバテ気味?

 父の墓参の前に、父が飼っていた、歴代ポメラニアン(リリー・ピコ・ポミ・ルル・・)が眠る教伝寺へ。そして9号線を通って福知山入りました。そして篠尾にある墓地へ・・
この墓には、曽祖父の『正紀』、祖父の『正夫』、父『正人』と3代の骨を納めてありますが、この墓に向かって右横に小ぶりの墓石が5個あります。この5つの墓石には、何やら書いてあるのですが、徐々に解析不明となりつつあります。以前、暇なときに解析を試みた結果を記しておきます。親戚の方々に怒られるかなあ・・・。ゴメンナサイ。


一番右奥の墓石
北村氏 俗名 伊兵衛 享合(和)元年(1801年?)辰年?月13日(死去?)
住所 京 小川通三条上ガル
この場所がルーツなのかもしれません・・
戒名 佛覺子清信(居)士
※この方がルーツなのでしょうか。北村?

2番目の墓石
竹内拾五正兼 文政5(1822)壬午(みずのえうま、ジンゴ)年六月廿七日
妻      嘉永6(1853)癸丑(みずのとうち、キキュウ)年十月八日
※竹内という名前が出てきます。『拾五』は、ミドルネームでしょうか。カッコいいですね。それに男の名には『正』が付く伝統は、江戸時代から? この文政から嘉永にかけては、シーボルトが長崎にやってきたり、異国船打払令が出て、天保の大飢饉大塩平八郎の乱などが起こった時代です。妻は名前も書いてありません。男尊女卑の時代でしょうか。

3番目の墓石
竹内三郎助順正 嘉永3(1850)庚戌(かのえいぬ、コウジュツ)歳八月?日
妻       嘉永5(1852)壬子(みずのえね、ジンシ)歳正月十二日
※このご先祖もミドルネームあり。三郎助がミドル。そして順正。『正』は最後に。この嘉永年間は、あのペリーが浦賀にやって来た時代です。いよいよ開国です。

4番目の墓石
竹内三郎助誠正 明治五年(1872)壬申(みずのえさる、ジンシン)歳九月廿五日
※やっと明治です。このご先祖のミドルも三郎助で、名が誠正。最後に正が付いています。竹内三郎助とうのが、嫡男の名前ということなのでしょうか・・。

5番目の墓石
竹内鱗之助
(士者本藩竹内三郎助 長子安政元年(1854)三月廿二日生於其家及長遊東京及兵庫之間修英学明治八年 (1875)三月之千武歳国横濱 入英人庵倶林氏一ツケ管新聞社補其業前後十年大?一町信依先是患肺明治十九年三月三日病死於横濱寓居享年三十二惜哉)
※このご先祖だけ、墓石に色々記載があります。福知山藩の武士、三郎助の長男で安政元年1854年生まれ。東京と神戸で英語を勉強?イギリス人グリーン氏・・・?新聞社勤務。横浜で死去(享年32歳)。肺結核が原因?

文明開化の波に乗って、勉学に励み、これからというときに惜しくも亡くなったので、墓石に記したのでしょうか・・。

ということで、三郎助誠正の長男鱗之助に子供が出来なかったので、5代目?は、次男竹内槌之助。このご先祖は、明治22年に槌之助から『正紀』へ改名と改名。住所は、京都府天田郡福知山町・・・だったのですが、昭和12年4月1日から市制が敷かれ京都府福知山市・・・となりました。場所は不明ですが、ここが私の本籍地です。曽祖父『正紀』は、幕末に生まれ明治・大正・昭和と生き抜いたことになります。墓石には、2524.5.29-2593.8.3(元治元年5月29日- 昭和8年8月3日)と西暦じゃなく皇紀で記されていました。