最近は、医者になるのも大変なようです。私が医学部を卒業した頃は、何となく父や祖父の跡を継いで、眼科医になると決めていて、眼科の勉強は宇山先生の所(関西医大眼科学教室)でしようと思い、お願いしますと挨拶して終わりだったのだが、今時の医者は、まだ国試のはるか前から、希望の大学病院や研修指定病院に見学に行ったりして、情報収集。その後履歴書や卒業見込証明書や成績などの資料を用意して、初期研修を受ける病院の試験のようなものを受けます。ところが、大都市圏の給料の高めの一般病院は超人気で、理由はわかりませんが、都会の大学病院の評判のいい(学生にとって)所も大人気。その最初の関門の競争率は何倍もあるようで、のんびり構えていたアホ息子は、カルチャーショックを受けたというか、情報収集不足だったと言うべきか、大慌てのようです。一端、最初の関門でつまずくと、次は、検索して空きが残っている病院を個別にトライしていく必要があり、これがまた、小さな病院の1−2名の定員空き枠に10−20名が殺到する騒ぎに。田舎の大学いて、卒業試験の真っ最中に、こんな騒ぎに奔走していたら、卒業試験の方が危なくなるかも。大学には悪いけど、もう2年ほど(だけ?)九州でお世話になったら・・・と思うようになりました。

 高校生の頃、数少ない友人の1人がオピニオンリーダーで、当時の彼の発言は私の言動に大きな影響を与えていて、そのひとつが珈琲。美味しい珈琲を求めて幾つかの喫茶店を巡った記憶がある。最終的に落ち着いたのが、心斎橋のMJBだった。確か七色の珈琲といって、毎日ブレンドの種類が変わる。当時、心斎橋・上六・淀屋橋と3店舗以上あったのだが、今は淀屋橋だけらしい。レトロな雰囲気の店内は、当時と変わらない。もう40年以上も前の昭和48年頃から入り浸っていたのだが、昨年70周年だったらしい。もう煙草は吸わなくなったが、喫茶店に入り、煙草を吸いながら珈琲を飲み、文庫本を読む・・あの頃が懐かしい。

  1. 月曜日 アラビアン(モカマタベース)
  2. 火曜日 ブリティッシュ(ブルマンベース)
  3. 水曜日 ウィンナー(深煎2種ブレンド)
  4. 木曜日 フレンチ(強煎コロンビアベース)
  5. 金曜日 メキシカン(メキシコ豆ベース)
  6. 土曜日 ブラジリアン(ブルボン、サントスベース)
  7. 日曜日 アメリカン(粗挽きで)



 またまた・・・甲子園へ行ってきました。気候的には最高の観戦コンディションの中、貧打線がとった1点を、秋山・岩崎・マテオ・ドリスで守り抜いて、気持ちよく六甲颪を歌ってきました。例年秋風が吹く頃、失速する我が阪神タイガースですが、今年は何故か好調です。メッセンジャーが骨折し、藤浪が精神的な問題で、コントロールを乱して2軍落ちするという危機的状況にも関わらず、好調を維持しています。新人・中堅・ベテランがバランス良く一体となっているのが要因なのだろう。残り25試合楽しませて下さいね。





 今朝、天気予報を見ていると、大阪の今日の最高気温36℃だという。ゴルフの予定もないので、涼しさを求めて出かけることにした。候補は比叡山箱館山、そしてびわ湖バレイ。先日行った能勢の妙見山よりずっと涼しい場所がいいので、この日はびわ湖バレイへ。確か、標高1000m以上なので、相当涼しい筈だ。でも、ここは本当に久しぶり。子供の頃はサンケイバレイと呼ばれていた。ベルトコンベア上をゴンドラが動いていく『カーレーター』という乗り物で山頂まで行った記憶がある。その後もう1回だけ行ったのは、ジャズフェスティバル。医者になって何年か経ってからなので、1990年頃だろうか。だとすると・・これかなあ・・

第23回(1990年7月28日(20:00〜5:00 司会:行田よしお)

http://www.geocities.jp/smjx1969/biwakojazz.htm

 非常に混雑していたはずで、かなり下の方の駐車場に車を止めて、少しづつ会場へと上がっていく途中、上の方から流れてくるジャズが心地よかった記憶がある。懐かしい・・・と遥か過去を思いを馳せつつ、駐車場に車と止めてロープウェイ乗り場へ。最新のロープウェイのようで、秒速12m(時速43km)というとんでもない速さで標高差782mを一気に駆け上がります。山麓駅が32℃ぐらいで、山頂駅は21℃。降りてビックリの涼しさは、千畳敷カール以来? この日は母にもマイナス10℃を味あわせて上げようと連れてきました。喜んでくれたのだろうか・・

・・・色々行ったなあ・・


可愛い後輩達からの贈り物(^o^)

 大分医科大学(現在は大分大学医学部)を1984年に卒業し、父の勧めもあり、宇山昌延先生が主催しておられた関西医大眼科に入局しました。父が亡くなった後も少し在籍させてもらい、1998年に開業することにしました。長い間大学にいたつもりですが、たった14年ほどだったのです。でも、この14年は本当に楽しい時間でした。
既に開業して19年ほど経ち、もはや開業生活の方が随分長くなりました。ただ、開業して、数年経過した時に、自分が随分医師として劣化していることに気づき唖然としました。そこで何とかしようと考えたのが、ブログと掲示板。
 ブログは、日々勉強した記録を記載していくだけ。学会や勉強会でメモして帰ってきても、いつもメモはいつの間にかゴミとなっていたのだが、ちょっと勿体ない気がして、メモを文章化して、ブログにアップすることにした。最初に書いたブログは、2005年11月28日の「薬店にあるメグスリ」に文句を言い倒すという恐ろしい記事でした。 コツコツともう10年以上続けていることになります。
http://takeuchime.exblog.jp/981671/ 
 もうひとつが掲示板で2006年6月19日に開始しました。掲示板はクローズドにして、楽しかった14年間にできた友人18名ほどに声をかけました。掲示板の説明は、
『大学の医局にいた時は、そんなに勉強する気がなくても、自然と最先端の医学知識が入ってきました。ただ、1人で医院を運営するようになると、当時と違って、なかなか勉強する機会が少ないのが現状です。そこで、開業医が横の連帯をつくり、日々の臨床上の疑問をこのHPにできれば写真付きで提示し、皆でディスカッションしながら、スキルアップする機会を共有しませんか? 1人で悩んでいるより、ずっと建設的だと思いますが、いかがでしょうか。
 なお、この場は、不特定多数の人間の目に触れる通常のホームページと異なり、現時点では、私が個人的に選んだ人だけが参加できるSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を利用しています。安心して、日々の疑問を議論できるスペースと考えています。賛同していただける方は、宜しくお願いします。』
 5年ほど掲示板で勉強した後、2011年1月にフェイスブックの秘密のグループ『小さな眼科の勉強会』を作って、現在に至っています(登録人数は20名ほどですが、幽霊会員が5−6名?)。実りあるディスカッションが得られる為には、結構真面目に勉強しないといけないので、『自分の勉強不足に唖然として』から10年以上経ちましたが、それなりに眼科医としてのレベルを底上げしてくれた歳月だったと感じています。還暦を通過した私ですが、もう少し続けようかな。

日本酒を飲むようになって、40年になるけど、今思う本当に美味しい酒に出会ったのは、15−6年前だろうか。NHKは見ていないのだが、何故かあの本に出会ったしまった。『純米酒を極める』に 

カラー版 極上の純米酒ガイド (光文社新書)

カラー版 極上の純米酒ガイド (光文社新書)

・・。医者の端くれとして(?)、何事も文献から入るスタンスを大切にしているもので(笑)、この聖典を頼りに酒を探し始めた。最初に見つけたのが、室蘭の酒本酒店と埼玉の池田屋酒店だった気がする。その後素敵な酒屋さんをたくさん知ることになったが。でも鷹勇に関しては、完全に池田屋さんが悪い。この店で最初に買った鷹勇があまりに美味しかったのだ。すぐにその世界にどっぷりはまりかかっていた時に、坂本杜氏最後の作品・・なんて言葉に負けて、若干焦りを感じつつ、鷹勇の割合がどんどん大きくなってしまった。だから、一番多く呑んだのは、H19 から21年かも。一番旨かったのはH9年の山廃。そろそろ、鷹勇ワールドから卒業しないいけないのだが、今日も、60歳の記念日用にとって置いた私にとって特別の鷹勇を頂きました。平成14年BYの鷹勇強力。多分に先入観が支配しているのだろうが、冷も燗も全て旨い。満足な味わい。語彙が不足していて、残念なコメントになるのだが、こいつは確かに旨い・・


 淡々と50代最後の日が過ぎていく。子供の頃、自分が60歳になるなんて、想像できなかった。凄い爺というか、精神的に老成しているイメージを抱いていた。鏡で自分の顔を見ると、えらい老けたなあ・・と思うのだが、普段はあまり鏡で自分の顔をまじまじと見ることはないし、精神的には昔とあまり変わっていないのだ。他人の自分に対する接し方とか、鏡や写真に写る自分自身を見て、いい年になったんだと認識するが、それがなければ、子供の頃とあまり変わっていない気もする。ただ、速く走れなかったり、ちょっと走ると動悸がするだけ^^; ボケが始まるまでは、そんな感じで年老いていくのだろうか。でも、カウントダウンが始まった。あと4時間もない最後の50歳代を大切に過ごさねば。50歳代にお別れの酒は、やはり、とっておきの鷹勇にしましょ。その後は・・・