平川幸男(Wヤング)さんが亡くなった・・

 Wヤングの平川さんが亡くなりました。どこまで書いていいのかわからないんで、若干隔靴掻痒的文章となりますが・・、チョット記録に残しておきたいので。
 中高生だった私は、『Wヤング』や『やすきよ』が大好きでした。当時のWヤングの相方は中田軍治さんで、洒落づくしがヒットしていました。中田軍治さんが自殺していなければ、その後漫才ブームで先頭を走ったのはWヤングだったとうい思いが今でもあります。
そんな頃、奈良の山奥(今思うとそれほどでもないが・・)の都祁村あたりに小さな小屋を立てて、そこに前泊して飲み食いして翌日春日台でゴルフという野蛮な生活にのめり込んでいた父が、この小屋を売ろうと考えていて、毎晩ミナミで飲み食いするのが日常の、会員制リゾートの凄腕(?)営業マンAさんに委託していました。そのAさんが、飲み屋さんで平川さんと遭遇し、父の売りたがっていた山小屋を平川さんに紹介したのが縁で、平川さんと付き合うなったようです(多分・・)。その後、すっかり意気投合し、漫才なんか全然興味がなかった父が、平川さんと濃厚なお付き合いをするようになりました。

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 いつの間にか診療所に有線を引き、平川さんの『北端の宿』が流れる診療所となり、ドライブのBGMは『北端の宿』ばかり。挙句の果てには診療休んで、平川さんのポスター撮影の為に青森へ行ったり。気がつけば、私まで『北端の宿』を口ずさんでいたような気がします。忘年会にはいつも出席されていて、時に仲良しの坂田利夫さんまで巻き込まれていました。奥様と息子さんも一緒に家に来られたり、平川さんの仲介でポメラニアンをもらったり(ルルちゃん)。親父のいきつけの祇園のお店のはしご酒に付き合った時、夜中に平川さんが芸子さんの三味線で歌う小唄に感動した鮮明な記憶があります。

 もう20年以上前ですが、父が亡くなった時、棺の前で号泣していた平川さんの姿が目に焼き付いています。その後も、職業上の理由で年に何回もお会いする機会があり、最後に入院する直前にもお電話をいただきました。何と返答していいのか困る内容に絶句しましたが・・・。平川さん、もう20年以上、天国で父が待っていた筈です。再開して、再び盃をかわしてください。一緒にカラオケしてください。父も喜ぶ筈です。チョット怖かった奥様もおられますが・・・