オオイタの思い出(その1)--1978年(昭和53年)--

takkenm32007-04-07

 昭和53年の阪神のクリーンナップは、藤田平・田渕・掛布。開幕投手は、あの生意気な江本?そう、もうエース江夏は去ったあとです。その年は案の定ダントツの最下位。昭和53年は、そんな年です。わかりやすく言えば、ピンクレディーがUFOを、キャンディーズが微笑み返しを、庄野真代が飛んでイスタンブールを歌った年です。その3月上旬、当時国立一期校であった新設の大分医大の受験の為に、大分へ向かいました。何故大分?そうです。色んなツケがまわってきたのです。イマドキの子供とは全く異なる、お受験とは対極にある学生生活を満喫してきた為?、予想外にも(予想通りに?)2年も浪人し、翌年は共通一次という新システムが始まるという状況に追い込まれ、おまけに、数少ない友人二人(W氏とK氏)が1浪で阪大に入るという不運?快挙?が重なり、もう絶対失敗の許されない勝負でした。大分、オオイタ・・・なんともマイナーな響きでしたが、古文の苦手な私にとって、偏差値の微妙な私にとって、練りに練った志望校です。ただ、既に、私学を数校受かっていたので、精神的には、それほど追い詰められてはいませんでした。ただ、国立安い。親が喜びます。当時入学金は6万で、年間授業料は前年まで9万だったのが、14万に引き上げられましたが、それでも、まだまだ格安。おまけに父親の呪縛から逃れることができるのです・・・私は意気揚々と海(瀬戸内と豊後灘)をわたりました。
飛行機で、大分空港へ着くと、迷わず?タクシーに乗り込み、大分市へ・・・と告げました。ただ、走っても走ってもなかなか着かないのです。料金メーターは、ずんずん上がっていく、不安になって、運転手さんに、大分市はまだですか・・と聞くと、左手に広がる海の向こうを指して、そこが大分市だと言うのです。軽い眩暈を感じながら、財布の中を確認しました。シンジラレナイ・・。こんな遠距離をタクシーに乗ったのは、初めてで、所持金を思い切り浪費してしまいました。地方空港は、町から離れていることがあります。乗る前に位置を確かめましょう。いい勉強になりました。その後、空港からは、ホバークラフトというとんでもない乗り物があることを知り、タクシーはこれ1回きりです。

実は、試験そのものの記憶は殆どないのです。その年は、もう10回近く、入試を受けていたので、もう慣れっこになっていたからでしょうか。その年の受験で覚えているのは、日本医大の受験です。何故か入試会場が東大だったのです。初めて見る東大。そして赤門をくぐった事、周りに東大生がうろうろしていたこと、テレビで見た時計台、そして荘厳な雰囲気の安田講堂、物理の試験の途中、尿意に耐え切れず退席したことなど鮮明な記憶となっているのですが、オオイタの試験の記憶は、何もありません。何でかなあ・・
宿は、オオイタ駅前のパルコの上にある第一ホテルでしたが、ホテルの記憶もあまりありません。ただ、美味しい珈琲の記憶は鮮明です。高2ぐらいから、W氏の影響で、珈琲に魅せられた私は、色んな店の喫茶店の珈琲を味わう事が、数少ない趣味のひとつでした。大阪でのお気に入りは、心斎橋のMJB。それと、チョット深煎りだけど、茜屋さん。当然、オオイタでも探したのです。大阪で、鍛えた嗅覚は異常に鋭く、すぐに目的地を探し当てることができました。トキハと呼ばれるオオイタ随一のデパートに隣接した場所にあるKOYAMA(府内町店)という喫茶です。ここのマスターがただ者ではないことは、後々知ることになるのですが、私は、まず、少し薄暗い喫茶のカウンターの一番奥の席へ行きました。当時非常に無口だった筈の私ですが、遠隔地に来ていることと、もう浪人しなくてもいいという安堵感が、いつになく口数を多くしていたようです。カウンターの一番奥には、ドリップで珈琲を淹れているおばさんがおられました。赤っぽいメガネを掛けた、上品そうな方でした。そして、淹れてくれた珈琲の味が忘れられない。香り高く、しっかりと味が出ていて、飲んですぐ、『おばさん。美味しい。こんな美味しい珈琲飲んだことないわ。今日は、受験で来たけど、大学は、オオイタに決めたので、また、珈琲飲みにきますね。』と、思わず口走ってしまいました。高木さんの珈琲でオオイタ行き決定の瞬間でありました。21歳の春です。
入学後すぐ、高木さんの所(KOYAMA)へ飛んでゆきました。とっても喜んでくれたと記憶しています。誕生日も覚えてくれていて、わざわざケーキを焼いていただいたこともありました。ただ、少し病弱だったような記憶があります。あれから不義理をしたまま、大阪へ戻り20年以上経ってしまいました。十分なお礼が出来ていません。何度か、消息をさぐってはみたのですが、不明です。高木さんお元気ですか?