故郷の思い出がベールに包まれ、そのベールが徐々に分厚くなってきたので、ここに記載しておこう。小学生の頃、夏休みになると、母に連れられて母の実家へ行った。そこには祖母と叔母さん二人と、いとこがいて、叔父さん達は少し離れた場所(櫛川と杉箸)に住んでいた。いつも皆親切にしてくれた。朧気な記憶の向こうに見えてくるのは・・・、近所に銭湯があり、その前には掘り抜きと呼ばれる良質の湧き水がいつも潤沢に流れていた。カラフルなタイルで囲まれた洗濯場もあった気がする・・。不味い水道水じゃなく、日本酒でも作れそうな湧き水で洗濯していたのだろうか・・、今となっては贅沢な話。
(※敦賀出身のフランス学者桑原武夫の文章の中に、掘り抜きの話が出てくるらしい・・。)
 朝から、麦わら帽子をかぶり、虫箱をぶら下げて、兄と一緒にイヤイヤ定番の蝉取りにも出かけた。クマゼミは貴重で、採れるのはミンミンゼミかアブラゼミばかり。必ず松原の海岸へも海水浴に出かけたが、海岸近くには叔母さんの家があって、そこでスイカを食べさせてもらったような気もする。海水浴後に真水を浴びるのだが、学校の生温いシャワーと違って、井戸水が異常に冷たかった。一度、叔父さんが、タコ壺を引き上げに行く舟に載せてくれたのを覚えている。ただ、昭和40年前後の話で、記憶全体がベールに包まれ、濃い霧の向こうの景色を見ている感じだ。叔母さん達の就寝時間が異様に早く、眠くもないのに寝なければいけない。夜になると蚊帳を吊ってその中に入るのだが、蚊帳は重く中は薄暗かった。一度、中でホタルを飛ばした事があった気もする・・・。毎日毎日よくあんなもの吊っては片付けていたものだ・・・。
 年の近い従姉妹には、可愛がってもらった。何故か、彼女が使っている教科書(やたらアンダーラインが引いてあった)や消しゴムが気になったのを今でも覚えている。
※当時、アタリが出るともう一本もらえる名糖のアイスバーをよく食べたが、大当たり?が出て、カバンか何かをもらった記憶がある。

 寒い時期にも行った記憶があるので、冬休みにも行っていたのだろう。迷惑な話だ・・。寒い時期、そこには豆炭を熱源とする掘りコタツがあり、その横には火鉢があった。寒い朝、炭熾しでいこった炭を火鉢やコタツの中に入れていたような・・・台所は土間で、風呂は四角い五右衛門風呂で、薪で沸かしていた。白黒テレビの前には、青いプラスチックのレンズがかかっていたような気もする。そんな懐かしい母の実家だが、学生の頃に祖母がなくなり、その後杉箸の叔父さんや上の叔母さんがなくなり、もう一人の叔母さんも寝たきりなったらしい。やがて私も亡くなるのだが、来週お見舞いに行こう・・・