Kimpai

最近は、呑みにゆくより、家で呑む事が多いので、このシステムは非常に有用だ。
美味しいお酒を入手する手段は、十分なレベルに達しているのだが、酒の肴は、なかなかハイレベルとはいかない。ところが、あの天才料理人O氏が、美味しい料理や食材を作っては直販するという、馴染みのないシステムに遭遇してしまった。もともとフレンチのシェフらしいのだが、なんでもできる感じ。以前、とんでもない大衆居酒屋という名のスーパー居酒屋をされていたのだが、1000日ほど、銀座8丁目で高級料理屋をして大阪へ戻って来られたようです。

  • 《ゴマの葉香る、渡り蟹のケジャン》
  • 《オマールブルーのアメリケーヌソース》
  • 《和牛のタンの欧風カレー》
  • 【完全無添加XO醤100g】
  • 無添加焼肉のタレ350ml】
  • 純胡椒Lサイズ
  • 【ちりめんぶどう山椒50g】
  • 無添加北海道産きんきの一夜干し2枚】
  • 【自家製熟成ベーコン300g】
  • 鯨ベーコン200g
  • 塩ウニ
  • 【グルクンの分化干し】
  • からすみ
  • 姫ますのマリネ 

次は何かなあ・・・

アメフト

その昔、アメフトが面白いと感じ真剣に観ていた時期があった。昭和51・52年と、大阪ではなく、京都で浪人生活を満喫していた頃だ。場所的には、烏丸今出川百万遍銀閣寺あたり・・・。嫌でも、ほぼ毎日百万遍にあった京大のタテカンが目に入る。昭和51年に京大は当時145連勝していた関学に勝って注目を集めた。昭和52年、『涙の日生球場』の名勝負が行われ、徐々に強くなった京大は、昭和57年に関学に勝ち、昭和58年には甲子園ボウルで日大に勝ち、ライスボウルレナウンに勝って日本一になった。その後徐々に興味は薄らいでいったが、当時は、毎日見るタテカンと京大が強いということの意外性が強かったから興味を惹いたのかもしれない。確か水野監督時代。体格の良さそうな高校生に目をつけて、家庭教師に京大生がついて、選手を集めているという噂もあった。戦略性の高いスポーツなので、頭のいい京大が強いのかなあとも感じていた。京大は灰色のギャングスターズ関学が青いファイターズ、日大が真っ赤なフェニックス。いつも灰色を応援していた・・・・
 そんなフェニックスの選手の悪質タックル。状況だけみていくと、とても純粋で正直な告白をしているとしか思えない宮川選手。どうみても、自己保身に走り、真実を語っていないとしか思えない、井上コーチと内田監督。宮川選手に同情するタックルを受けた側の奥野選手と父親。彼らの言動をみていると、真実は明らかだろう。
学生のクラブ活動とは思えないほと大きくなってしまったアメフト部の監督が、巨大な大学において、権力が異常に集中してしまった常務理事であったことが、今回事件の大きな原因のような気がする。宮川くんが、再び元気いっぱいタックルできる時期が来ることを祈っている。

S坊J郎氏のメルマガで、すっきりした・・・。以後殆ど受け売り^^;

禁教令は秀吉も出しているが、より徹底されたのは江戸時代の慶長の禁教令(1612年)以降でしょうか。禁教の徹底に伴って、キリスト教徒は転向するか隠れキリシタンとなっていく。以後250年以上の長きにわたり、隠れキリシタンは、決して発見されることのないスタイルを身につけたのでしょう。そして、明治6年1873年)禁教令が廃止された後、隠れキリシタンの多くが洗礼を受けてキリスト教徒となった。この人達が潜伏キリシタンで、彼らが明治以降に作った数々の施設が世界遺産として認定されるようです。
ただ、ごく少数ですが、明治6年の禁教令廃止以降も、カソリックの洗礼を受けることなく、禁教令下で250年以上続けてきた信仰スタイルを現在でも維持している人たちいるらしいのです。本当にごく少数で、長崎に数百人ほどおられるようです。禁教令下のスタイルなので、全ての儀式が秘密裏に行われて、その全貌は明らかではありません。彼らこそ、日本遺産として認定したい気がする。

 その日は、カミさんが食事会でお出かけなので、老いた母と二人で晩御飯。以前は、子供を引き連れて、絶品焼鳥の『うづら屋』へよく行ったのだが、この店も無くなって数年。何処へ行こうかと悩んだ末、赤酢の鮨屋へ。淡路の奇跡的な鮨屋はまたもや予約がとれず、チョイスしたのは、京橋の すし処 広川
赤酢の鮨は合格点なのだが、酒のチョイスが・・・・惜しい・・。豊盃は吟醸香が食事の邪魔で、九頭竜燗酒用らしいが酒の旨味が感じられず×××^^; 


結構高い鮨屋だが、母はいつまで覚えてるのだろうか・・


久しぶりに美味しい天ぷら屋さんに出会った。まだ若いがストイックな感じのする店主で、美味しいだけじゃなく、居心地も良かった(ここが肝心)。最初にお椀が出てきて、間違ってるかもしれないが、利尻昆布とまぐろ節の出汁の中にクレソンと一緒に入っていたお肉は『ツキノワグマ』だった。エッと思ったのだが、この熊さんにノックアウトされた。本当に美味い。つかみは100%OK。この体験は、もう30年以上前に、赤坂の『楽亭』に入り、『石倉楫士』という凛とした料理人の立ち姿に圧倒された後、、付き出しとして出てきた『イカ塩辛』の美味さにノックアウトされた時と似た気分だ。30年以上前のイカの塩辛に匹敵するインパクトのツキノワグマだった。お酒のチョイスは若干問題あるものの、及第点。また行こう。


あまりここに記事を書かなくなって、たまに書くと訃報が多いのは残念ですが、またまた訃報です。星野仙一氏が亡くなりました。私の中の星野は、あくまで中日の星野ですが、彼が数年阪神の監督として、チームを再生させてくれた事は忘れられません。その時の感動の作文を追悼文として再掲載します。

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 世代によって違うと思いますが、昭和32年生まれの私は、初代ミスタータイガース藤村富美男を知りません。阪神タイガースに魅せられたのは、エースは村山、1番が吉田、4番は遠井か山内という時期でした。山内はいても、小山はもういなかったのです。昭和37年、39年と阪神は優勝しているのですが、哀しいかな、私にはこの記憶はゼロです。昭和39年という年は、小学校入学の年なんですが、この年は10月1日に東海道新幹線が開通し、10月10日には、東京オリンピックが開幕した年で、日本中がこの世紀のイベントに沸きかえり、阪神が優勝したことも、南海ホークス日本シリーズを戦ったことも、そんなことどうでもよかったのかも・・。この日本シリーズも、オリンピックの開幕前に終わるように、ペナントレース終了翌日に開催する強行日程だったと聞いています。そして、私も、アベベと円谷、三宅兄弟の記憶があっても、阪神優勝の記憶はないのです。だってまだ、小学校1年だったのですから。
この後まもなく阪神ファンとなった私が優勝シーンを初めて見たのは、人より少し長い学生生活を終えて、医者になって2年目の、小倉のぼろアパートの1室でした。もうすっかり大人であった私は(?)、この時、テレビに映る大阪の愚かな阪神ファンの熱狂振りを冷ややかに眺めながら、ひとり静かに、祝杯をあげたものでした。江夏や田渕が達成できなかった光景に涙しながら・・・これが阪神ファン本来の正しい姿です。道頓堀に飛び込む連中は、阪神ファンではありませぬ。そしてまたまた18年もの歳月が流れました・・・

その年の9月13日土曜、父親にすっかり洗脳された長男(?)を引き連れ(写真見る限り嬉しそうじゃない)、日帰り名古屋旅行(行き先はナゴヤドーム)を敢行し、悔し涙を流した私は、門真の女神のお導きで、二日後の正午には、9月中旬には似つかわしくない炎天下の3塁側アルプスにいました。

Xデイに備えて、準備は万端でした。春先からの首位独走のお陰で、入手困難となったチケットをなんとか獲得すべく、ヘソクリをつぎ込み、遂には、禁断のオークションにまで手を出し、3段構えで、チケットを押さえました。無類の強さで、快進撃を続ける阪神は、8月の中旬にも優勝する可能性があったのです。そこで、8月21日の大阪ドーム、8月30日甲子園を押さえ、そして最後の砦が9月13日ナゴヤドームでした。これで完璧や。絶対胴上げ見せたるからな、ついて来い・・・・・・・・。ところが、長男とナゴヤドームで見た阪神は、全く別のチームのようで、守ればエラー(あの金本が・・)、投げれば四球のオンパレード(藪が・・・)。 

(注:だから名古屋には行きたくなかったんや。だって高1の秋、残り試合2でマジック1となった阪神は、名古屋へ・・・。阪神の先発は江夏、中日は星野。あの時も阪神は、ガチガチのコチコチで、星野を打てんかったんや。忘れられん・・)  

流石に精魂尽き果て、胴上げを見るのは諦めていました。この頃、阪神戦のチケットは高騰し、オークションでは、1枚10万以上という、ばかばかしい値段がついてたもので・・・。そんな所に一通のメールが飛び込んできました。2日間以上徹夜で並んだ友人の友人である熱狂的阪神ファンのMT嬢からです。『チケットをゲットできるかもしれない・・・』というのです・・・・・よくは覚えていないのですが、気がつけば、目の前には、昨夜もエラーしまくった金本の姿がありました。名古屋で見た阪神ナインは、大差のついたペナントレースにも関わらず、完璧な金縛り状態で、打てない、守れない、走れないと、3拍子そろった伝統のスタイルを取り戻していたので、その日も、ベテラン阪神ファンである私は、あまり大きな期待をしないようにと自分に何度も言い聞かせながら、阪神電車に乗り込みました。ただ、2週間ぶりに訪れた甲子園は、優勝前夜のような異常な興奮状態にありました。躍る心を抑えつつ、MT嬢が確保してくれた席にたどりつきました。イエローシートやライトスタンドは何度も行きましたが、3塁側アルプスは初めてでした。でも、なかなかいい眺めです。ここ数日間、絶不調の金本に直接罵声がとどきそうな位置なのですから・・・。とりあえず、『今日はエラーすんなよ金本!』一声かけてやりました。
 そしてお昼過ぎに試合開始。予想通り打てない阪神。最近ノックアウトが風物詩的になった伊良ブーからヒットを重ねる広島。3回にはシーツにツーランを浴びてしまう(『この伊良ブー!とっととアメリカ帰れ』)。5回にやっと矢野が初ヒット。藤本がライトフライ、伊良ブーも不細工なバンドを成功させ、沖原のタイムリーで1点差。ところが6,7回とヒットなく、また嫌なムードが漂い始めました。そして、運命の8回、その嫌な雰囲気を振り払う、片岡の1発。さすが片岡。私は、彼が必ずやってくれると信じてました。本当です^^; 球場の雰囲気は一気に変わりました。もう甲子園は完全にお祭り状態です。9回表を安藤君がピシッと抑え、その裏、藤本・片岡と連続ヒットが出た時には、殆ど勝負はついていました。
星野が赤星に何か囁いています。その直後、赤星の打球がライトへ飛んだ瞬間、何がどうなったのか、しばし記憶が飛んでいます。まだ、優勝じゃないんだと、わかっている筈なんですが、この劇的なサヨナラ勝ちで、観客もナインも優勝したような大騒ぎです。マジックはこの時点でまだ1なのに・・・

試合終了は、午後5時25分でした。ここから、2時間以上待ちました。でも、楽しい楽しい待ち時間です。関西医大眼科外来の2時間待ちとは違います。心うきうき、少しドキドキの2時間。当然、誰も帰りません。隣の高知から来たおじさんがラジオを聞いていて、ヤクルトが4点先行したと、絶望的な情報を提供してくれていたのですが、しばらくして、甲子園の大型ビジョンにヤクルト・横浜戦が映し出されたときは、何と、4−11と横浜が逆転しているのです。横浜いつもありがとう!どよめく5万3千人。ただ、横浜の事なので、ハラハラドキドキ、心配して見ておりましたが、2点とられたら、1点取り返し、6−12。いくら横浜でも、大丈夫やと皆が思い始めた、その時、3塁側アルプスから、ウエーブが始まりました。ノリの悪いグリーンシートで何回か止まったものの、やがてベンチに戻ってきた阪神ナインまで加わると、ウエーブは甲子園全体を巻き込み、何周も何周もまわりました。興奮してよく覚えてませんが、10周近く回ったでしょう。そしてウエーブが終わる頃、横浜戦は終盤を迎え、9回2死になると、大型ビジョンに向かって『あとひとり』コールです。ヤクルト最後の真中がショートゴロでアウトになった瞬間、全ナインがマウンドめがけて突進し、万歳万歳バンザイバンザイ・・・・そして、星野の胴上げ。夢にまで見たタイガース優勝決定シーンが目の前にあるのです。信じられません。子供のように、はしゃぎ回る阪神ナインを見ながら、この歓喜の渦の中にいる喜びを噛みしめていました。みんなに引きずりまわされ泥だらけの藤本、金網によじ登り警備員に怒られる赤星、ただ一人で、各スタンドに万歳を呼びかける桧山・・・・・ただ、喜びを爆発させる阪神の選手達が、妙に幼く子供っぽく映りました。そういえば、このシーンを見るのに40年もかかったのです。


HANSHIN Tigers OFFICIAL FAN CLUB No 5004882 竹内正光

昭和51年高校を卒業して、大阪を逃げ出し京都の予備校へ入った頃は、

こんな事件があり、歌がながれ、番組があった時代だった。ラジオが恋人だったこの時代、何故か『おはようパーソナリティ中村鋭一です』や『フレッシュ9時半!キダ・タローです』をともに聞いてから、百万遍にあった予備校の授業に出ていたこともあった^^; 懐かしい・・。物心付いた昭和39年頃から阪神ファンであった私には、中村鋭一氏は指導的立場だった。政治家になってから、若干違和感を感じていたが、ここ数年テレビで顔を見なくなり、何かあったに違いないとは思っていたが、残念だ。阪神球団から、何らかのコメントが欲しいなあ・・